こんばんはtakaです。
今回(2020年11月8日)の情熱大陸では
鮨職人/難波英史さんが登場します。
難波英史さんはコロナ禍のご時世にもかかわらず、
驚異の9か月待ち鮨(すし)店「なんば」の店主です。
すし一貫一貫に最適温度を導き出し
「味・香り・食感」すべてが最高の状態へ
温度管理に関しては以下の記事も見られています
一人試行錯誤を繰り返した。
孤独とコンプレックスを抱えながらも、
あくなき向上心で至高の鮨を目指す
難波英史さんという人に
興味が出てきて調べてみましたので
一緒に見ていきましょう。
1.難波英史さんのプロフィールは?
名前 :難波英史(なんば ひでふみ)
生まれ:1974年
年齢 :46歳(2020年11月時点)
出身 :東京都杉並区出身
学校 :高校(定時制)
所属 :鮨 なんば
20歳より寿司職人を志し、東京の寿司店で修行。
2007年、32歳で独立し、東京・荻窪に「鮨なんば」を開店。
2011年に東京・阿佐ヶ谷に移転、予約困難店となる。
2018年、東京ミッドタウン日比谷に2店舗目となる「鮨なんば」をオープン
お店の場所は予約方法などについては
以下の記事が見られています
2.難波英史さんの経歴が凄い!?
東京都杉並区出身の難波英史さんは
今では驚異の予約9ヶ月待ちの
すし店の職人さんです。
それほどのすし職人さんともなれば
やはり長い年月、しかも超有名店での
修行を乗り越えてこられたのか?
と思いますが実際はどうなのでしょうか?
難波英史さんが鮨職人になったきっかけや
その後の経緯などが気になりますよね~。
鮨職人になったきっかけは
食べることが好きだった難波英史さんは
高校在学中に深夜に飲食業のアルバイトをしていました。
理由は単純に「食べることが好きだったから」。
だそうです。この時点では現在のような
鮨を極める職人になろうというつもりもなかったです。
ですので最初に働いたのはすし屋ではなく蕎麦屋だったそうです。
そして次に働いたのが鮨屋さん。
そのお店はいわゆる大衆店でしたが、
ここで鮨職人という仕事の奥深さに興味を抱き、
「極めてみよう」と決意したそうです。
ここで寿司職人になるという決意が芽生えたのですね。
鮨職人になると決意したからにはやはりすし屋さんでの
修行が必要ということで、まずは地元の荻窪の鮨屋で修行しました。
その後、都内の鮨屋を転々としながら技術を学び、2007年に独立。
荻窪にカウンターだけの小さな店を持ちました。
おかげさまで地元の企業の社長様などで繁盛し、
少し手狭になったため2011年に阿佐ヶ谷に移転。
座席数が少し増え、カウンターは8席に。
つまみ10皿と握り12貫で12000円という
リーズナブルな価格帯で商売するうちに、
地元に限らず、違う町からわざわざ
電車に乗ってやってきてくれるお客様が増え、連日、予約で満席に
なるほどまでになったそうです。
それも知識だけは負けまいといろんな資料をかき集めて
思考錯誤を繰り返し改良を重ねた難波英史さんの
努力の賜物なんでしょうね。
そんな自身で試行錯誤して改善を重ねていける
難波英史さんはやはり学歴や家庭環境が
スゴいのでしょうか?
3.難波英史さん学歴がスゴイ!?
有名な鮨職人さんといえば
修行の時点からいかに超有名店で
修行を積むかというどんな有名な、
スゴイ技術を持つ、著名なお店で修行を積み
その技術を自分の物として
独立に至るかが重要な点と思われますが
難波英史さんはその点では通常の
修行とは異なる方法を取られてるようです。
修行時は超有名店ではなく、町のすし店を
点々と移りながら修業をされたそうです。
残念ながら修業されたお店は情報が見つかりませんでしたが
そんなご自身で試行錯誤し、9ヶ月先まで
予約が埋まるほどの人気店になるようなお鮨を
つくれるようになるということは
難波英史さんご自身の能力や学歴が凄いのか?
それとも家庭環境がもともとすし店だったとか?
気になるところですが、
学歴に関しては最終学歴は定時制高校のようで
少なくともお鮨に関して学校やその他特別な
研修・訓練を受けたわけであないようです。
そして家庭環境に関しては情報がみつかりませんでした。
今のような人気店になるまでに至ったのは
難波英史さんがもともとお持ちの何かを始めると
極めたいという性格か、ご本人もおっしゃってるように
「鮨の魔力」に惹きつけられたからかもしれませんね。
そんな難波英史さんの年収も気になる方は以下の記事から
ご覧ください
最後までお読みいただきありがとうございます。
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記事は以下のリンクからご覧になれます。
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