こんばんはtakaです
今回(2020年8月6日)放送の番組【カンブリア宮殿】では
カンブリア宮殿【オンラインで説法も法要も
!ウィズコロナ時代の寺改革】というテーマで
築地本願寺 が取り上げられ、
そのトップ、宗務長の安永雄玄さんが出演されます。
安永雄玄さんは築地本願寺の
トップとして有名な方ですよね~。
今回2回目の出演となる安永雄玄さん。
前回、番組では旧態依然の寺社会を打ち壊す
築地本願寺の革新ビジネスを紹介したが、
安永の先見性と手腕は、
今回のコロナ禍を予見していたかのようだった。
寺院経営のあるべき姿や法要のあり方等、
築地本願寺の動きや試みからウィズコロナの新時代
危機に立ち向かうヒントが見えてくる
どのような方なのか調べましたので
一緒に見ていきましょう
1.安永雄玄さんのプロフィールや本名は!?
名前 :安永雄玄(やすなが ゆうげん) 本名 :安永雄彦(やすなが ゆうひこ) 生まれ:1954年 出身 :東京都 学校 :ケンブリッジ大学大学院博士課程修了(経営学) 慶應義塾大学経済学部 開成高校 所属 :浄土真宗本願寺派築地本願寺代表役員・宗務長 学校が開成高校から慶應義塾、そして ケンブリッジへと誰もが知る 超難関学校のオンパレード。 この学歴だけでも並みのお人ではないことが 知れるというものですよね~。 でも、安永雄玄さんの経歴においては これはまだ、はじまりに過ぎないのかもしれません。
2.安永雄玄さんの経歴が凄い!?
安永雄玄さんの経歴が凄いです
三菱東京UFJ銀行
ラッセル・レイノルズ(外資系大手エグゼクティブ・サーチ会社)
島本パートナーズ
グロービス経営大学院(教授)
築地本願寺
著書:『日本型プロフェッショナルの条件』
大学、大学院と経済、経営を学ばれてた流れか
大学院卒業後の就職先は銀行でした。
三菱東京UFJ銀行(当時は三和銀行)に就職。
東京出身の安永雄玄さんですが、
最初の勤務地は大阪でした。
そこで、その後にも大きな影響を及ぼすかも知れない
開成会(開成OBの親睦会)にたびたび出席するようになりました。
その後、大阪を皮切りに東京、名古屋、ロンドンと
いろんな土地に転勤し勤務していました。
その勤務先で、銀行業務に励む傍ら、
各地の開成会や三田会(慶應義塾のOB親睦会)などにも参加。
偉い人が多く、大きな組織の三田会に比べて
小ぶりな開成会が当時まだ駆け出しの安永雄玄さんには
居心地がよかったようです。
その後、ラッセル・レイノルズという
外資系のヘッドハンティング会社に入りました。
その後に独立し、2004年に島本パートナーズ
(経営幹部人材のサーチ・コンサルティングなどを
行う経営コンサルティング会社)へ入社。
オーナーが亡くなったので、後を継いで会社を経営してきました。
人材を引き抜くヘッドハンターは、
いろいろな人物を知っているかが勝負で、
その最初の人脈の核は、それまでの自分の人脈。
つまり、開成、慶應、銀行員時代の人脈が出発点としてあったようです。
もちろんその後はご自身の実力で作って行かれたそうですが。
3.安永雄玄さんなぜ住職に!?
前述のような華々しいエリートコースを
突っ走っていたと思われる安永雄玄さんに
見えるのですが、なぜそれまでと全く違う分野の
僧侶の世界に入ったのでしょうか?
不思議に思いますよね~。
これだけ華々しい経歴であれば
もちろん、収入もかなり多いと
推測されると思うのですが(収入だけで職業を選ぶのではないとは思いますが)
ヘッドハンターのお仕事で忙しい毎日を送っていた
安永雄玄さんですが、そんな折、
『実家のお寺を手伝って欲しい』と声をかけられたそうです。
声をかけたのは慶應時代の先輩だったそうです。
ここでも普段からの人脈の影響が大きいようですね。
そして、僧侶の養成学校で必要な知識を会得し、僧侶に。
といいますか、この先輩もなぜ、銀行マン、ヘッドハンターである
安永雄玄さんに声をかけたのか不思議ですよね~。
理由はわかりませんでしたが
安永雄玄さんとしては、
私が勤めていた三和銀行は結局、
不良債権の処理に失敗して三菱銀行と一緒にならざるを得なかった。
あれは今から考えても、限度を超えてやり過ぎた。
「神の見えざる手」を無視して合理性だけで突っ走っていった
咎(とが)なのだろうという意識がありましたね。
銀行を辞めてコンサルタントになってからも、
そういうことにやはり何らかの形で自分なりに
落とし前をつけたいという気持ちがあり、
だから、仏教の勉強をしようと思ったんですね。
という思いがあったようです。
4.安永雄玄さんの宗務長までの道
そんな経緯でお坊さんになった
安永雄玄さんですが、どのような道のりで今の地位まで
たどりついたのでしょうか?
三田の近くで、先輩の父親で文学部中国文学の
藤田祐賢(ゆうけん)教授が住職を務めていた
宝徳寺というお寺の副住職になり、
3年程、お坊さんとしての実務をやったんですね。
——なるほど、それは大きいですね。
安永 そこでお経を上げ、ご遺族、
門徒さんのために説教をし、
お話を聞くという実践の中で、
僧侶のあるべき姿みたいなものがだ
んだん体得できるようになっていきました。
結局、そのお寺は副住職のまま退任して、
藤田先生の亡くなった後、
僕を引っ張り込んだ先輩が跡を継いで住職になっています。
それからしばらくして、
先ほど申し上げた宗門と本山の改革があり、
その時に宗門の常務委員、築地本願寺の評議員に
有識者として参加することになりました。
そこの会議でガンガン意見を言っていたら
「そんなに言うんだったら、プランをつくってくれ」と。
それで案を出したら、どうも採用するらしい。
それで、「あんたがつくったんだから、やってくれ」
と言われ、宗務長になったという経緯です。
安永雄玄さんはどうやらやり手らしく
改善すべき箇所が見つかると
おとなしくしていられない性格のようですね(笑)
こういう場合、確かに言われる方のみになると
「そんなに言うならやってみろ」と言いたくなる気持ちも
分かりますよね。ですが、たいていの場合、
そんなりいかないこともあるのでしょうが、
そこを推進してしまった安永雄玄さんは
やはりここでもエリートぶりを発揮してしまったようですね。
最後までお読みいただきありがとうございました。
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