こんばんはtakaです。
今回(2020年5月18日)放送の
『逆転人生』では
船場吉兆の経営陣の一人だった
湯木尚二さんが出演されます。
船場吉兆は食品偽装が発覚し、
廃業に追い込まれた老舗料亭で
湯木尚二さんは当時の経営陣のおひとりでした。
「一度は日本全国を敵に回した」という状況から
再び料理の道へ。わずか6坪の小さな店で
お客に真摯に向き合い「もてなし」という
原点を取り戻していっているそうです
どのような人なのか気になり調べましたので
一緒に見ていきましょう
1.湯木尚二(元船場吉兆)さんのプロフィール
名前 :湯木尚二(ゆき しょうじ) 生まれ:1969年 出身 :大阪府 最終学歴:甲南大学経営学部
湯木尚二さんは、大学を卒業後に、
船場吉兆に入社して、
家業に専念しました。
老舗日本料理店【吉兆】の創業者、
湯木貞一をの血が、湯木尚二さんに受け継がれて、
着実に料理人として進化されているようです。
原材料偽装などの問題発覚した当時の
大阪の老舗料亭「船場吉兆」の経営陣の一人でした。
2.湯木尚二さんと船場吉兆トラブル
湯木尚二さんが経営陣としてかかわっていた
船場吉兆の問題とは。
07年10月、販売する惣菜などの
食品偽装が判明したことを皮切りに、
原材料偽装や料理の使い回しが
発覚する大騒動を起こしました。
この問題が発生した当時の吉兆は、
かなり好調の時期でした。
本業の料亭の経営だけでなく、有名百貨店で
「吉兆ブランド」の商品も手掛けていたほど。
では、そんな好調の船場吉兆が
なぜ「料理の使い回し」のような問題を起こしてしまったのか。
業績が悪く追い込まれたからとかいうわけでもないのですが・・・。
原因は事業拡大にともない、
ひとつひとつの現場に目が届かなく
なっていたことだったようです。
またこのトラブルが注目を浴びるようになった理由の一つが
謝罪会見にもあったようです。
そう「ささやき女将」と言われる言葉も生まれたほど。
このトラブル発生したとき、船場吉兆の対応として
正直に話すべきかどうか内部で意見が分かれました。
内容が重大なだけに話しあいにも時間がかかったのでしょう。
そんな合間にもいろんな報道がなされるうえ、
事実無根の内容も報道されることに見かねて
なされたのがあの謝罪会見だったようです。
「ささやき」と言われる母の所作に、
思わぬ注目が集まってしまった。
兄は職人気質で、あまり多くを語らない人です。
あれだけの報道陣が集まる中、
さらに緊張してしまい、言葉が出てこなかった。
そこで、母が兄を心配して助言をしたつもりが……。
こういう行動は残念ながら、
思いと裏腹の結果になってしまうことが多いようですね。
会見の後に、兄は母に向かって怒っていましたね。
「あんなこと(ささやき)をしなくても大丈夫だったのに!」と。
この会見も含め「一度は日本全国を敵に回した」
謝罪会見に出席した母親が「ささやき女将」と報じられるなど、
家族ぐるみで壮絶なバッシングにあったようです。
ですが根本はお店の理念を忘れてしまった対応にあるのではと思います。
3.湯木尚二の船場吉兆廃業後のお店やささやき女将の今は?
謝罪会見後もしばらくは『船場吉兆』を続けていましたが、
長年かけて築き上げた信頼はなかなか取り戻せず、
負債は8億円ほどに膨らみ、
2008年5月に店を畳まざるを得なかったそうです。
ここまで騒ぎが大きくなったせいか、
廃業後数ヵ月は、なにも手につかず貯金は、
100万円を切までに・・・。
そんな途方に暮れている時に、
昔から懇意にしてくれた外食チェーンの
経営者の方が「時間が余っているなら、
『吉兆』で学んだ料理のイロハを生かしてうちの店を手伝ってくれ」
と声をかけられたそうです
月給は15万円で確かに、高くはなかったですが
金額は関係なしにそれでも、飛び上るほど嬉しかったそうです。
というのも日本全国を敵に回し、途方に暮れた状態のなかで
お金を貰って働くということの喜びを、
もう一度かみしめることができたからだそうです。
それをきkっかけに、人生の見え方が変わり、
『(株)プラス思考』という個人会社を作り
外食のコンサル業をはじめて、
それで生計を立てていました。
飲食店の仕事を手伝ううちに、
やっぱり自分でもう一度お店をやりたいという気持ちが強くなってきました。
そこに、10年の秋に知り合いの不動産業者が
「もともと小さな鮨屋だったところが空いたから、
料理屋をやってみないか」
と声をかけてくださったそうです。
そんな経緯があって
大阪・難波に、6坪、カウンター6席の、本当に小さな店を開きました。
もう一度心を改めて、一生懸命、初心に戻って働いた結果、
そうすると、少しずつ、お客様が来てくれるようになったそうです。
しかも吉兆時代のお客様も、足を運んでくれるようになったとか。
これは嬉しいですね~。しかも
『あの時は大変だったね。
でも、この味をみると、君の気持が伝わってくる。
絶対にまたやり直せるよ』
と声をかけてくださる方もいるそうです。
次第に商売も軌道に乗って、
おかげさまで現在、3店舗を構えるまでになりました
北新地の『日本料理 湯木本店』
『日本料理 湯木新店』
肥後橋『ゆきや』
吉兆時代のスタッフも、何人か戻ってきました。
父も母も、現在は年金暮らし、
飲食業にはまったく携わっていません。
先ほど申し上げた通り、
兄はまったく別の仕事をしているそうです。
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